創業、信州上諏訪で清酒「真澄」の酒造業として創始
1662年(寛文2年)、神州一味噌の前身である宮坂醸造は、長野県諏訪市で酒造業として始まりました。諏訪大社に保存されている鏡の名を由来とする清酒「真澄」は、創業期から「米のうまみを一心に引き出す」品質至上主義を貫き、酒通の知るところとなりました。全国の多くの蔵元が使用する酒造りに大変優良な「協会7号」酵母は、真澄の蔵から分離されました。
味噌の醸造を長野県諏訪市の丸髙蔵工場で開始、神州一味噌と命名
永年培われた醸造技術を事業の周辺領域に広げようと、第19代宮坂有紹(ありつぐ)は、「人々の健康に貢献する事業」として、娘婿の宮坂千足(ちたる)に命じ、高島城三の丸跡に丸髙蔵工場を創業。山梨県鰍沢の酒蔵を移築し鰍沢蔵と名づけました。近隣にはない、高層の堂々とそびえる蔵に見えたそうです。
豪快な有紹と千足は、相性がよかったようです。蔵を興すとすぐに千足は「東京に出たい」と進言しました。「もし、どしどし売れたらどうするか」との岳父(有紹)の問いに「どしどしこちらで造ればよいでしょう」の一言で、当時では大金の五千円(現在は五千万円位)をぽん!と有紹は出すことに決めたそうです。創業後2年目に東京へ進出したのですが、当時既に大手味噌会社が市場を占めており、販売は大変苦労したそうです。千足は一計を案じ、従来上田味噌とか諏訪味噌など長野県内の地域名で競争している中、信州味噌と命名して販売を一挙に高めました。信州で1番だ!ということで、信州一味噌で商標出願しましたが、地名は一企業には認められないと却下され、1938年(昭和13年)神州一味噌で認められました。
東京に中野工場建設
関東大震災(1923年9月)後、信州味噌の東京への出荷が大きく伸び、当社丸髙蔵の生産が追いつかず1932年(昭和7年)に現在の東京都中野区野方に工場を構えました。戦乱期を経て、戦後の何もない時代に東京への味噌供給は信州味噌が一手に引き受けた格好で成長すると共に当社も大きく発展しました。当時は、樽で酒屋さん中心に店まで運び「量り売り」として、お客様が必要な量をその場で詰めて販売していました。
業界初のビタミン入り味噌発明、袋詰め味噌製造で大きく成長
戦後、脚気など栄養不足が社会問題化する中、世の皆様の健康にと1952年(昭和27年)、ビタミン強化味噌を発明しました。また1950年代から売り出した小袋詰め(現在のピロー包装)が60年代急激に伸びていきます。この相乗効果で大幅に需要が高まり、1963年(昭和38年)中野工場を最新鋭工場へ進化させ、生産能力の拡大を行いました。
いち早くキャラクターを採用し、当時のニューメディアTVCMを活用
1963年(昭和38年)中野工場を最新鋭工場にした時を同じくして、袋詰め神州一味噌の愛称募集をし、「み子ちゃん」と名づけられました。懸賞賞金は10万円と、当時では大金でした。愛称「み子ちゃん」を使って、当時のニューメディアのテレビを使い、「しゅしゅぽっぽ、しゅしゅぽっぽ、神州一、しんしゅういち、おーみおつけ!」のコマーシャルソングとあいまって、急速にお客様に親しまれる存在になりました。ご承知の通りそれから60年以上現在に至るまで、お客様からご愛顧いただいています。
フリーズドライ(FD)事業を開始。業界初FDみそ汁、FDおせち、FD惣菜を開発
素材の再現性が最も高い加工技術である凍結乾燥(FD)技術に着目し、東京都東久留米市にFD工場を設立。当時味噌はもちろん、日本食を赴任先で食べられずに困っていた海外駐在員とご家族のためにおせち料理を、そして登山食や保存食、惣菜などフリーズドライ食品を次々に開発製造していきました。現在は健康食品、防災食なども製造しています。これからの簡便性ニーズに応える技術として、さらなる発展の可能性を秘めています。
甲府に新工場建設、業界初のコンピューター制御導入
1970年代に入り工場周辺への環境問題が起こり始め、その頃には住宅地の真ん中に立っている中野工場も、大豆の煮汁などを処理する排水処理施設が必要となりました。 そこで1978年(昭和53年)に、大きな排水処理設備を伴った最新鋭の甲府工場を、山梨県甲府市国母工業団地に建設。業界初のコンピューター制御による味噌製造を開始し、現在まで主力工場としてフル稼働をしております。
その後甲府工場は、2002年(平成14年)にISO9001:2000を取得し、2014年(平成28年)には業界初の米国FDAの査察をうけ認可され、さらに2015年(平成27年)にはISO22000を取得し、安全・安心をお届けする当社主力工場です。
和食の可能性をいち早く察知し、海外展開へ
1991年(平成3年)業界に先駆けて、アメリカ・ロサンゼルスに営業所を設立。1999年(平成11年)には中国青島に駐在員事務所、2012年(平成24年)にインドネシア・ジャカルタ近郊に味噌工場を設立しました。アメリカでは業務用味噌「技」が高いシェアを獲得。アメリカでの味噌の品質基準になっているほどです。アジアでは「み子ちゃん印」が味噌の代名詞となるほどブランドを築いており、ジャカルタ近郊にある「PT.Miyasaka Indonesia」は、味噌としては世界で初めてインドネシアハラールの認証を取得し、人口2億4千万人のインドネシアだけでなく、全世界のイスラムの皆様15億人に向けての輸出工場としての目標に向けてまい進してまいります。
新たな時代を迎え、「人々の健康に貢献する事業としての神州一味噌」の原点に戻る
2016年(平成28年)味噌の創業100周年を迎え、サッポロホールディングスの傘下で、新たな1歩を踏み出しました。グループビジョン「世界に広がる「酒」「食」「飲」で個性かがやくブランドカンパニー」のなかで「食」を担う事業会社として、激変する社会環境、多様化するお客様のニーズ、グローバル化、IT・通信技術の発展等大きな変化の中で、神州一味噌がこれからもお客様の健康に貢献できる会社となるよう歩んでまいります。
神州一味噌株式会社へ
神州一味噌株式会社へ社名変更し、より一層皆様に愛されるブランドに育ててまいります。
平安時代の貴族の正装で、十二単はご存じと思います。
着物と袴をはいてその上に十二単を着ることが正装でした。
明治大正まで普通に見られたこの装いは、ここからきています。
今でも、卒業式と入学式では、正装としてこの服装を着る方も多いのは、
前述の理由です。新しいみ子ちゃんは、新しい時代を迎えて、
ちゃんちゃんこともんぺから、着物と袴の正装になりました。
「資性明敏にして理非曲直に厳なるも、その情、人を率いるに長じ寛厳宜しく、従業員皆その徳になつく。」古い書にはこう評されています。事業を一から立て直した人物ですので、公平、寛容さと厳しさを持ち備えた徳のある人だったのでしょう。
その才と徳性を見込まれ宮坂家に養子で入ったのですが、蔵は人手に渡って、表座敷は人に貸している何もないところからスタートしました。当初他人の酒蔵を借りて、一生懸命やったのですが数年で返さなくてはならなくなり、妻は涙を流して悲しむほどの大きな出来事でしたが、「思い切りよくきれいさっぱり返す」と言って、けじめをつけました。大変思い切りのよい人でした。これがきっかけで、自社蔵の真澄を再興する決断に繋がったと聞いています。その人望からなのでしょうか、どのように親交が始まったのかは分からないのですが、早稲田の大隈重信、渋沢栄一、安田善次郎などの政財界の重鎮と付き合いがあり、のちに銀行業を始めました。学問好きで歴史好きで、晩年は大酒飲みの豪快な人物でした。
学者風で司法省に入るつもりでしたが、病気で断念。よく本を読む人で、歴史が好きだったようです。歴史の話で、岳父と話が合いました。皇女和宮様や東郷平八郎があたかもその場にいたように話したそうです。娘が戦時中、嫁ぎ先の新潟から汽車で帰るのに、お金がないので「キセルをした」ことを話すと、烈火のごとく怒ったそうです。仕事でも厳格だったそうですが、そのくせ、子供たちを集めてユーモアな話をして笑わせていました。晩年の風格は見るからに立派で、道を歩いているとどこかの政治家や大御所と間違えられて、道をあけられたそうです。
商標「神州一味噌」を保有している当社に対して、長野県の味噌組合から、信州味噌の商標を出願したいので異議を唱えないでほしい旨の要請がありました。千足は、「業界の発展のみ願っている」と快諾。その後、味噌組合から、神州一味噌だけは長野県外で造っても信州味噌と名乗ってよいとの特例が与えられました。
丸髙蔵の食堂には、丸髙初代の宮坂千足が残した「仕事人人和」(仕事は人、人は和)という揮毫が残されています。千足翁は、社員だけでなく自戒の言葉としてこんな言葉を残したのかもしれません。